茨木カンツリー倶楽部

西コース 6921y(6511y) Par72

東コース 6765y(6403y) Par72



茨木カンツリー俱楽部の歴史は、広岡久右衛門(加島銀行)、加賀正太郎(証券業)の出会いから始まる。

大正11年。阪神間の日本人ゴルファーは50人、それも神戸財界人中心、大阪には、ゴルフ場一つない。2人は、「よし、デッカイ庭園でも
造ってみるか」と手を握る。

計画は、@ 関西初の18ホールのコースA 建設地は大阪近郊B 土地は倶楽部の所有地とするC 建設費は50万円というもの。

「借地はしない」。関西では、舞子も鳴尾も、借地ゆえにすべて廃止になっていた。それが教訓だった。

大正12年2月、茨木郊外の11万坪。現在地が決まる。しかし予算不足。考えたのが土地組合案だ。出資者を募り集めた資金で土地を買収、残りの
土地を出資者に配分する案だった。折からの地価高騰で成功する。

大正12年12月13日社団法人茨木カンツリー俱楽部認可。大正13年1月4日コース着工。設計は、駒沢の臨時レッスンプロだった英国人
ダビッド・フードを程ヶ谷CCの現場監督だった峯太刀造が助けた。工事はすべて人力。谷間の水田の上に土をかぶせてフェアウェイとした。

昭和5年12月、英国の巨匠C・H・アリソンが来訪、改造を勧告。彼が1ラウンドした日本のコースは、ここだけ。昭和36年9月井上誠一設計の
西コースが開場、フラッグシップは移る。

・・・美しい日本のゴルフより・・・


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