我孫子ゴルフ俱楽部 6923y(6474y) Par72


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大昔は、あぢこともあちこくとも言い、昔は安孫子、阿孫子とも書いたそうだ。濫觴は遥かに遠い。

そして昭和初期、大利根と手賀沼に囲まれたそこを "北の鎌倉"という人たちがいた。志賀直哉が居を構え、陶芸家バーナード・リーチも住んだ。だが、
産業が無いと悩む32歳の青年町長染谷正治に「ゴルフ場を造ったらどうだ」と知恵をつけたのが、朝日新聞にの文人・杉村楚人冠だった。

手賀沼に突き出した絶好の舌状台地があった。

昭和5年2月着工、10月開場。最初のコースは、6503ヤード・パー71、もちろん1グリーン。今も残る「我孫子ゴルフリンクス平面図」の欄外には、
「本設計ハ赤星四郎、六郎両氏ガ巧ミニ地形を利用シテ・・・」と注釈がある。

初代のクラブハウスは、9番グリーンのすぐ下にあった、

追い風の日は、カレーライスにバンカーの砂が飛び込んだという挿話がある。コースは「我孫子のバンカーは難しい」と恐れられた。小さくて固く背を丸めた
グリーンにボールを止めるのが難しい。しかし、我孫子の名手もプロも、絶妙のコックコントロールでそれをクリアした。
関東に、程ヶ谷流と我孫子流ふたつのバンカーショットありと言われた。

戦時中は、海軍経理学校の占有でゴルフを休止。だが戦後米軍の接収を逃れた幸運が、復興を早めた。

昭和21年10月7日には、ガダルカナル島から復員して山本増二郎プロが、プロ室入り口に関東プロ協会の標礼をかけた。林由朗プロも戻った。

会員18名、月齢優勝には米1俵や豚1頭の商品が出た。昭和24年戦後初の日本プロ選手権は、我孫子で行なわれ、林由朗が優勝している。

プロ復活で先頭をきった我孫子はアマチュアでも名手たちを集めた。三好徳行、小栗市三、森本弘、ハーバード・チャックなど。
彼らが競い合って、日本アマチュア界を席巻、名門の階段を上がった。

「美しい日本のゴルフコース」より・・・