長崎国際ゴルフ俱楽部

7090y(6733y) PAR72


OUT

IN



昭和26年雲仙ゴルフ場の米軍接収解除後、長崎ゴルフ界の戦後が始まる。すぐ雲仙ゴルフ場に間借りした長崎雲仙ゴルフクラブが生まれる。
主役は、軍需産業の造船業界に代わった平和産業のトップ大洋漁業社長・中部悦良(長崎放送社長)だ。

それから3年、中部理事長は、間借りコースは嫌と、市内から車で25分、高射砲陣地跡に、長崎雲仙GC改め長崎カンツリー倶楽部を
開場する。時は昭和30年1月23日。
しかし9ホール・2772ヤード・パー36「あれでは練習場じゃないか」と心ない風説も聞こえた。

戦争中は軍の飛行場を計画したこともあるという現在地、諫早市南西部飯盛町牧野高原の、ゴルフ場適地が報告されたのは昭和37年10月。
その後中部悦良の急逝で、計画の主役は、義弟中部利三郎(大洋漁業副社長・長崎放送2代目社長)に移る。

利三郎は、昭和31年途中から経営を引き継いだ下関ゴルフ俱楽部を見事なチャンピオンコースに仕上げて、評価の高い経営者だ。
さらに「中部家は家族4人合わせてもシングルハンディ」といわれた一次郎、幸次郎、銀次郎兄弟の父親である。本人も
ゴルフの蘊奥を知る人だ。

用地99%の買収が完了した昭和38年5月28日、母体となる長崎土地開発(株)を設立、資本金9000万円、代表取締役社長・
中部利三郎。昭和38年9月4日、現在の14番ホールから着工。設計は当初間野貞吉だったが、中部利三郎理事長は
より高いレベルを求めて、下関GC、門司GCそして広野GCでその作品をよく知る上田治に変更、「日本の代表的ゴルフ場に
匹敵するものを作れ」が、注文だった。

但し、いたずらに難コースを造れではなかったようだ。次のエピソードが残る。

「スライスは初心者がやるものだから、スライス側のOB線はつくるな。フックでOBは腕前の問題、つまりミスだ。OBになっても
納得々々。
だからほとんどのホールが、右側は崖のセーフ。左側が崖下OBになっていた」(創業時名誉会計・脇山勘助)
下関GCは途中からだが、「長崎国際ゴルフ俱楽部は、始めから終わりまで中部利三郎が手塩にかけて作ったゴルフ場」
という評価がある。昭和39年9月20日、18ホール・6475ヤード・パー72を本開場。

「美しい日本のゴルフコース」より引用