塩嶺カントリークラブ

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しらかば りんどう

名古屋市中区栄は、東京でいえば丸の内、銀座に匹敵する。CBCのテレビ塔も間近い。昭和37年、大学を卒業した
ばかりの弱冠22歳の上田正治青年は、栄3丁目の父祖譲りの土地80坪に地上4階地下1階の山市ビルを新築、貸ビル
不動産会社の社長となる。ゴルフも知らない紅顔の青年社長だったが。不動産情報はよく集まった。

山市ビルのテナントに出入りするなかに、CBC放送関係者で中日クラウンズトーナメント担当者の呉藤縁がいた。信州
(長野県)出身で、塩尻、岡谷から近い標高1000メートル前後の塩嶺高原に、ゴルフ場付きの別荘地開発を計画
「1口乗らないか」と誘ってきた。ゴルフコース予定地45万坪のある勝弦平は、日本列島そして信州の中央、八ヶ岳、
蓼科、霧ヶ峰、美ヶ原、塩嶺を結ぶ、ゆるやかな起伏の南西にひらく傾斜地だった。地名からみて、1200年前に
栄えたという信濃十六牧のひとつだったろうか。

何よりも雄大な景観が、山田を驚かした。「CBCも協力するから」という呉藤の言葉も後押しした。地元出身の東京工業
大学・青木志朗、鈴木忠義両教授に開発基本計画作成を依頼。

昭和45年6月11日信州塩嶺高原開発(株)設立、資本金2000万円。社長山田正治。用地買収を開始。用地45万坪のうち
3分の1は買収。3分の1は財産区、3分の1は市有地で借地契約。別荘地900区画、20万坪は自社買収した。
この時弱冠30歳、信用も金もなかったが、用地買収も陣頭指揮で頑張った。「若いだけに逆に心配され、協力者も
出てきた」と、後日山田社長は語っている。

この間、唯一山田の心が安まったのは、県庁へ陳情で出かける際、長野CCに立ち寄ってゴルフを練習「ゴルフは
おもしろい」「当ると気分爽快」と知ったときだった。

昭和46年3月29日、ゴルフ場起工式。元請・大林組、施工・大日本土木。設計は、大日本土木の関連で上田治。

昭和47年1月21日、信州塩嶺高原開発(株)から分離して、ゴルフ場運営を主とする信州塩嶺高原カントリー(株)を
設立。呉藤縁が取締役に就任する。

会員募集は、50〜60万円で販売、名古屋はCBCの子会社CBC企業で50l、首都圏はTBSの子会社TBS興産が
集めて20l、地元30lの分布だった。(現在は地元90l)

昭和48年5月1日、第1次18ホール・7023ヤード・パー72が本開場。海抜1000メートルの高原のフェアウェイから、
日本アルプスの名山を一望できる景観の大きさは、他に比類のないものであると人気は高い。

昭和52年7月10日、鈴蘭コース9ホール・3250ヤード・パー36仮オープン。30歳で塩嶺CCの紅顔の社長となった
山田正治は、今も40年目の社長職、居宅も塩尻に移し、塩尻商工会議所会頭として活躍中である。

(田野辺 薫氏の「ゴルフの歴史を歩こう。」から)


しらかば・3番ホールのフェアウェイ中央部にOB杭ではない白い杭が岩の横に立っています。杭には「御座石」と書かれていますが、その詳細は上の右の画像でどうぞ・・・
一番右の画像は当コース最大の標高1020m(りんどう・5番)を示していますが、空気が薄いと飛ぶんとちゃうんかい!!といちゃもんの一つも・・・(汗;)